由緒/御祭神


御祭神

  • 早良親王

光仁天皇の皇子である早良親王は、幼少から東大寺羂索院に奇住し、11歳で出家し修練・修行を重ね、21歳で受戒します。その後、大安寺東院に移り、高僧になられていましたが、天応元年(781年)32歳のとき、兄である桓武天皇が即位された際に、父光仁天皇の勧めにより還俗し立太子され、皇太弟となります。

 

延暦3年(784年)桓武天皇は平城京からの長岡京への遷都を望み、信任厚い藤原種継を造長岡宮使に任命されましたが、遷都後まもない延暦4年(785年)9月に種継が射殺されます。犯人はすぐ捕らえられ処刑されましたが、大伴・佐伯両氏を始めとする反対勢力の仕業であると感じた桓武天皇は、きびしい詮議をすすめ、終にその累は皇弟早良親王に及びます。同年9月28日、早良親王は廃位され乙訓寺に幽閉されました。親王は無実を主張されましたが、天皇は許すことなく、淡路島に配流が決まります。淡路島に向かう途中、京都の南方山崎の高瀬橋のほとりで親王は息途絶え、遺骸はそのまま淡路仁井の里に埋葬されました。

 

しかし、早良親王の死後、皇太子に立てられた安殿親王が発病、桓武天皇妃や早良親王の生母である高野新笠が病死し、都では疫病が流行し、洪水などが相次ぎます。それらは早良親王の祟りであるとされ、幾度か鎮魂の儀式が執り行われました。さらに、延暦17年(798年)に、桓武天皇は早良親王を都の近くに迎え丁重に祀るよう使者をたて、親王の御骨を大和国八島陵に手厚く蔵められました。そして、延暦19年(800年)に、追尊の儀を執り行わせ、早良親王を崇道天皇と追称しました。

 

桓武天皇の崩御後、大同元年(806年)に安殿皇太子が人皇第五十一代平城天皇に即位されると、父であった桓武天皇の志をつぎ、崇道天皇の霊を紀寺の里に祀らせました。これが当社の創建です。

早良親王の墓の写真
早良親王の墓<淡路島仁井>
早良親王の墓(天皇の森)の写真
早良親王の墓(天皇の森)<淡路島仁井>
八島陵の写真
八島陵<奈良市八嶋町>

御神徳

霊験あらたかな御祭神ゆえ、心を尽くせば霊妙奇異の御神徳の御守護御加護を賜ることができます。

  • 疫病災厄退散
  • 健康長寿
  • 家運隆盛
  • 稼業繁栄
  • 円満和楽

氏神様

当社は、紀寺一円の氏神様です。氏神様は地域を守る神さまであり、その地域に住まわれている人すべての方を氏子とし、子どもの誕生やその後の成長していく過程でのさまざまな通過儀礼、地域の安全などを見守ってくださる、最も身近な神さまです。

彼岸の起源

日本後紀によると、大同元年(806年)辛巳の条に「崇道天皇(早良親王)のため諸国の国分寺の僧をして春秋二仲月別七日に、『金剛般若経』を読まわしむ」との記述があります。平城天皇が崇道天皇の御霊を鎮め慰めるために命じられたもので、これが日本で初めて仏教行事として行われた彼岸会です。彼岸会は、長い歴史の中で日本独自の習俗と結びつき、現在も仏教の各宗派で法会が行われ、また年中行事として寺院への参拝や墓参りなどが広く行われていますが、その起源は当社御祭神に由来いたします。

神祇歌

神祇歌とは、神事や祭礼などの神社参拝の際に詠まれた歌のことです。当社には、鎌倉末期から南北朝時代の知将として名高い楠木正成の子孫である楠木正忠(楠木氏嫡流伊勢楠木氏の6代当主。伊勢国北勢四十八家楠城城主)が詠んだ神祇歌が伝わります。

 

千代萬浄猶行末も君が代を

かきはにまもれ紀寺大神